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前回の続きで、小泉政権の構造改革路線における民主主義のチェック機能の弱体化の懸念について論じたいと思う。現状の構造改革は、以前にも指摘したように「壊す」ことに性急で、新たに作り上げるビジョンが全くといっていいほど無い。これは日本の国家戦略の欠落といった問題と関係しているのかもしれないが、もう一つ、熱しやすく冷めやすい有権者の問題も挙げられるのではないだろうか。これは現代社会の大衆がマス・メディアによる影響を受けやすいという問題があるだろう。 例えば道路公団の分割・民営化などもだいぶ当時はさかんに取り上げられたにもかかわらず、結局のところ全計画路線の建設が決まり、根本的な問題はほとんど解決されなかった。小泉路線とはこんなものなのかというような疑問がもっと出てきてもおかしくないのだが、どうも国民の反応が悪い。また、実際にはそうした民営化した会社の経営には様々な形で政府の政策判断が直接的に影響するにもかかわらず、「民営化したのだから、経営的観点の『自主性』が尊重されるべき」というレトリックによって、民営化した根本の目的から乖離したような行動に対しても、政府が手出しできないというような問題が発生しうるのである。「改革」の結果がどうなるかに対するチェックが極めて弱いのだ。 ここで出てくる問題とは、企業経営的な規律では対応できない可能性がある。「民営化が足りない」から起こるのではなく(そういう場合が無いとは言えないだろうが)、以前にも述べたことと関係するが、あらたな「公共性」が必要とされている現状の問題に対して、行政も議会も追いついていない。民間企業的な手法が必要な場合でさえ、そもそもの目的設定が間違っていれば問題は解決できない。公的領域が変化したから構造改革が必要だとするならば、それは民間によって解決できるのではなく、あらたな「公共性」を見つけることでしか解決できないのではないか。公的サービスが必要な領域において、財政難から民営化し、その結果(企業の自由な判断によって)そのサービスから企業が撤退することは起こりうる。現に起きている第三セクターの鉄道の撤退がいい例だ。鉄道の撤退によってその地域のネットワーク全体が縮小して、地域経済のパイが小さくなる(=経済的な損失となる)可能性もあるし、何よりも自動車を運転できない老人や子どもなど、社会的弱者が真っ先にダメージを受ける。 そうした社会的弱者の声をうまく吸い上げる民主主義が機能しないと、こうした問題は悪化する一方である。棄権者の多さ=有権者の政治への無関心とは様々な要因によって起こるものであり、それを単純に語るのは避けなければいけないが、しかし現状の政治のあり方そのものに多くの有権者が顔を背けているというのは事実であろう。 90年代初め、政治の腐敗を防ぐといって行なわれた「政治改革」が、小選挙区制という「選挙制度改革」に矮小化された。それこそが小沢一郎氏の行なったことであり、その矮小化は左派潰しに集約された。それによって社会党(現社民党)、共産党を「現実離れした路線」と批判し、左派が弱体化した90年代後半以降、現在に至ってもしばしば、左派を「非現実」と叩くことによって、自民党も民主党も自分達こそ「現実的である」というイメージを植えつけることによって、「現実的な」問題を深く突っ込んで説明しないままでやりすごしている(例としては以前述べた岩国の問題が挙げられる)。この例から伺えるように、「リアリズム」を標榜することで、日本政治の問題の所在を有権者から覆い隠し続けているのが現在まで残る「二大政党制確立」への幻想ではないだろうか。二大政党制そのものに問題があるとは言い切れないが、死票が多い制度であることからも分かるように、政治参加への意欲の低い層の排除を加速する制度であり、今の日本では問題が多い。 今起きている自民党の教育基本法「改正」論議など、正直55年体制の頃からの改正方向と本質的に変わっていない。彼等こそ時代への適応能力を欠如していることを露呈しているのだが、こうした批判をする議論が少ないのはおそらく、改正反対を訴える(教育基本法を守ろうとする)側一方だけを「守旧派」として叩くことによって、あるいは「愛国心」の条文の言葉遣いのような細かい問題にだけ注目を集めることによって、改正そのものの是非(これこそが一番大切なことのはずだが)をきちんと議論しないような状況が作られてしまっているのではなかろうか。(憲法改正についても似たような状況になっている気がするが、この問題はまたいずれ扱いたい。)ちなみに、そうした側を批判する方にも、時代への十分な適応ができていないという声もあるだろうし、それはそれでごもっともな部分もある。しかし最大の問題は(右派がどう、左派がどうといったことの前に)実際に権力を持ち、政治を動かしている側が十分な議論をせずにどんどん状況を動かしていることである。そしてマスメディアがそれに対するチェック機能を失いつつあるということでもある。 二大政党制(ないしは、固定的な自公対民主というそれに近い現状)においては、両党の政策、イデオロギーが似通ってくる。しかし、最大の「同盟国」と言われ、世界最強の国家であるアメリカですら現行の方向性そのものに不安を抱えるような状況で、日本もこれからの方向性を狭い土俵の上で論じるだけでは不十分である。根本的な問題から問い直していく必要のある問題が多いはずである。(その具体例に関しては、このブログでいくつか取り上げているつもりなので、お暇な時に読んで欲しい) 「単一民族・文化」的な言説の大好きな日本の主流メディアの多くは、国内社会にある異文化や弱者に対する寛容度が低い。むしろ自分の強者としての立場を忘れて攻撃的ですらある。こうした土壌をもつ社会には二大政党制は危険ではないかと思うのだが、どうだろうか。 ちなみに、現在の日本社会において「伝統」を考えることの難しさについて書いた記事もありますので、興味のある方はこちらをどうぞ。 |
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拉致問題と、政治的価値判断
痩せ蛙さんが、同し内容のコメントを、あちこちの多数のブログに入れている(この人は余程、頭に来ていると見える)。 私の記事にもコメントを寄せてくれているが、その意見は私の主張に大体近いので、私は、そうだそうだ、と思って拝見しただけ。 ところが、痩せ蛙さんの多... ...続きを見る |
晩秋 2006/05/04 00:16 |
拉致問題と、政治的価値判断
痩せ蛙さんが、同し内容のコメントを、あちこちの多数のブログに入れている(この人は余程、頭に来ていると見える)。 私の記事にもコメントを寄せてくれているが、その意見は私の主張に大体近いので、私は、そうだそうだ、と思って拝見しただけ。 ところが、痩せ蛙さんの多... ...続きを見る |
晩秋 2006/05/04 00:17 |
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