多摩市民「九条の会」

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zoom RSS 東京大空襲の日

<<   作成日時 : 2010/03/15 03:15   >>

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3月10日は東京大空襲から65年目の日であった。この空襲は9日深夜から始まったため、戦後早い時期は3月9日を空襲の日ととらえることも多かったが、多くの方が亡くなったのが10日に入ってからだからか、現在では10日として定着している。この空襲は今でこそかなり知られているが、戦後20年くらいは、あまり取り上げられることもなかったようだ。現在、「東京大空襲・戦災資料センター」館長でもある、作家の早乙女勝元氏などの尽力で、莫大な被害の実態が次第に明らかにされるなかで注目され、広く知られるようになった。

多摩市民「九条の会」のある会員、82歳、当時18歳だったその方の書いた手記をここで紹介させていただく。何気ない手記のようであるが、真夜中、10キロ以上離れた麻布で、新聞の字が読めるほど空が明るかったという、当時を知る人ならではのリアリティが見える。


今日は3月10日です。忘れもしません、今から65年前の1945年(昭和20年)私は港区の下町・東町とその坂上・本村町の中間にあった竹谷町仙台坂の町工場で住み込み行員として働いていました。私は18歳。その日の夜は警戒警報が一旦解除となり、私達は軍服まがいの訓練服を着て、ズボンにゲートルを巻いたまま布団にもぐりこみました。

ウトウトとしていたら、いきなり空襲警報のサイレンがけたたましく鳴って叩き起こされました。慌てて起床、工場の中庭に建った所、すでに米軍の4発の大型爆撃機・B29が無数、私達の頭上を乗り越えて四方八方の低空から本所、深川、浅草方面の一般市民住宅密集地に向って大量の焼夷弾を投下の最中で、その夜は北風も強く、すでにそれら下町は火の海と化し、その桁外れ大火の輝きは10キロ以上離れた私達麻布の空をも真っ赤に染め上げて居りました。その明るさで当時のタプロイド版の新聞の中見出しの字を楽々と読めるほどでした。そして深夜の僅か2時間足らずの内に10万人以上の老人と子持ちの若い夫人達が子供と共に無残にも焼き殺されたのでした。

どうして老幼男女だけが殺されたのか?働き盛りの男達は太平洋戦争で戦場に狩り出されて殆んど居なかったからです。以下省略。


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