メディアのゆがみ・書き手のゆがみ 前編 インターネットについて
明けましておめでとうございます。(だいぶ遅いですね、、、すみません)
昨年末に一年の「締めくくり」として、今までのこのブログで書いてきたことのまとめを少し書こうと思っていたのですが、年末になかなか更新する暇がなく、新年早々ではありますが「まとめ」を書いてみたいと思いました。
注 「前編」のつもりでしたが、後編を書くタイミングを完全に失してしまったので、さしあたり後編は無しになりました。ご了承下さい。
何のまとめかといいますと、このブログで今まで90本以上の記事を書いてきて、その中でどの記事が多く読まれているのかなどを分析し、その傾向を考えてみようというものです。ただ今回は、その前提として、インターネットというメディアについて少しお話をします。
「メディア」というのは「媒体」とか「媒介」といった意味です。それはあるものと別のものをつないだり結びつけたりするものです。しかしながら「つなぐ」といっても完全に同一化するわけではなく、つながれる対象同士の間に差異は残ります。残らなかったら(完全に同一化されてしまったら)「つなぐ」はずのメディアはもはやメディアではなくなっていることでしょう。
少し話が抽象的で分かりにくいかもしれませんが、我々が一般に使うところの「メディア」というのは、何かを伝えるために「情報化」したり「単純化」したりしなければならず、伝える対象全てをありのまま伝えるのは不可能だということです。それはメディアの「ゆがみ」と呼んでも差し支えありません。しかし逆にいえば「ゆがみ」の無いメディアなどないのです。このことを前提としてください、というのが第一の点です。その上で第二に、そのメディアの特性などから、それぞれの「ゆがみ」が具体的にどんなものなのかが分かるならばそれを考慮に入れた方がいいということです。
大雑把な例ですが、インターネットというメディアは誰もが発信できる分、玉石混交、時にはとんでもないウソも入っているかもしれません。でもテレビや新聞などでは絶対に無視されてしまうような小さな声も伝えてくれます。「ゆがみ」とは利点も欠点も含めて述べているのでご注意ください。その「ゆがみ」はメディアの機能的な特性から来るものもありますが、別の点によるものもあります。例えば、パソコンを使うのは全体としてはまだまだ若者(20代~40代前半くらい?)が中心です。もちろんそれ以外の世代も使いますが、世代的な「ゆがみ」は傾向としてあるでしょう。
世代以外のゆがみもあります。PCをつかいこなし、かつインターネットに接続するにはそれなりのお金がかかります。貧困層はネット空間から排除される可能性が高いわけです(参加したくてもハードが購入できなかったり、接続料が払えず参加できない)。また、少し細かい話しをすれば、例えば最近耳にするワーキングプアーなどのうち、請負労働などをやっている若者ですと、ケータイで仕事に登録しますので携帯電話が必需品です。今はケータイからネットに接続「できる」から、PCをわざわざ購入したり、PCからネットに接続する費用を抑えたいわけです。そうすると、例えばこのブログのような文字数の多いブログなどは、携帯から読みにくいので避けられる傾向が強まります。書き手の判断で長い文章を書いているわけですから、個別のHPやブログの「ゆがみ」まで突っ込んで考える時には当然書き手の「ゆがみ」も重要な問題になります。そしてそのゆがみは、テーマの選択による意見の「偏り」なども入ってくるので、一層複雑な問題になるわけです。
そうした時に、ネットでの世論調査や意見調査といったものは、特にマスコミなどが無作為抽出で行なう電話調査などとは比べ物にならない大きな「ゆがみ」があるわけです。こうしたネット空間の特性を考えた時に、この多摩市民「九条の会」のブログの書き手の書いたものに対する読み手のリアクション(ここでは話を単純化するためヒット数に絞って)から、どういった「ゆがみ」が読み取れるのか、次回かんたんな分析をしてみたいと思います。
昨年末に一年の「締めくくり」として、今までのこのブログで書いてきたことのまとめを少し書こうと思っていたのですが、年末になかなか更新する暇がなく、新年早々ではありますが「まとめ」を書いてみたいと思いました。
注 「前編」のつもりでしたが、後編を書くタイミングを完全に失してしまったので、さしあたり後編は無しになりました。ご了承下さい。
何のまとめかといいますと、このブログで今まで90本以上の記事を書いてきて、その中でどの記事が多く読まれているのかなどを分析し、その傾向を考えてみようというものです。ただ今回は、その前提として、インターネットというメディアについて少しお話をします。
「メディア」というのは「媒体」とか「媒介」といった意味です。それはあるものと別のものをつないだり結びつけたりするものです。しかしながら「つなぐ」といっても完全に同一化するわけではなく、つながれる対象同士の間に差異は残ります。残らなかったら(完全に同一化されてしまったら)「つなぐ」はずのメディアはもはやメディアではなくなっていることでしょう。
少し話が抽象的で分かりにくいかもしれませんが、我々が一般に使うところの「メディア」というのは、何かを伝えるために「情報化」したり「単純化」したりしなければならず、伝える対象全てをありのまま伝えるのは不可能だということです。それはメディアの「ゆがみ」と呼んでも差し支えありません。しかし逆にいえば「ゆがみ」の無いメディアなどないのです。このことを前提としてください、というのが第一の点です。その上で第二に、そのメディアの特性などから、それぞれの「ゆがみ」が具体的にどんなものなのかが分かるならばそれを考慮に入れた方がいいということです。
大雑把な例ですが、インターネットというメディアは誰もが発信できる分、玉石混交、時にはとんでもないウソも入っているかもしれません。でもテレビや新聞などでは絶対に無視されてしまうような小さな声も伝えてくれます。「ゆがみ」とは利点も欠点も含めて述べているのでご注意ください。その「ゆがみ」はメディアの機能的な特性から来るものもありますが、別の点によるものもあります。例えば、パソコンを使うのは全体としてはまだまだ若者(20代~40代前半くらい?)が中心です。もちろんそれ以外の世代も使いますが、世代的な「ゆがみ」は傾向としてあるでしょう。
世代以外のゆがみもあります。PCをつかいこなし、かつインターネットに接続するにはそれなりのお金がかかります。貧困層はネット空間から排除される可能性が高いわけです(参加したくてもハードが購入できなかったり、接続料が払えず参加できない)。また、少し細かい話しをすれば、例えば最近耳にするワーキングプアーなどのうち、請負労働などをやっている若者ですと、ケータイで仕事に登録しますので携帯電話が必需品です。今はケータイからネットに接続「できる」から、PCをわざわざ購入したり、PCからネットに接続する費用を抑えたいわけです。そうすると、例えばこのブログのような文字数の多いブログなどは、携帯から読みにくいので避けられる傾向が強まります。書き手の判断で長い文章を書いているわけですから、個別のHPやブログの「ゆがみ」まで突っ込んで考える時には当然書き手の「ゆがみ」も重要な問題になります。そしてそのゆがみは、テーマの選択による意見の「偏り」なども入ってくるので、一層複雑な問題になるわけです。
そうした時に、ネットでの世論調査や意見調査といったものは、特にマスコミなどが無作為抽出で行なう電話調査などとは比べ物にならない大きな「ゆがみ」があるわけです。こうしたネット空間の特性を考えた時に、この多摩市民「九条の会」のブログの書き手の書いたものに対する読み手のリアクション(ここでは話を単純化するためヒット数に絞って)から、どういった「ゆがみ」が読み取れるのか、次回かんたんな分析をしてみたいと思います。
この記事へのコメント
これからもよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。また(以前の記事ですが)、トラックバックもありがとうございます。ブログで発信している自分自身への自戒も含めた記事ではありますが、やはりわれわれの様にちっぽけなところから発信しているものの持つ「ゆがみ」と、ヤフーの様に巨大な力をもったサイトでの「ゆがみ」とは社会的な意味が全く異なりますよね。そういうことが頭ではわかっている人でさえも、ヤフーのような大きなポータルサイトなどは、「何気なく」「日常的に」使うものなので、無批判で受け入れてしまうことがどうしても(私自身も含めて)起きてしまう。だからこそ、小さな声を上げていく必要性があり、言論の自由が保障される必要があるんだと私は思っています。
本文を読んでいるんでしょうか?