多摩市民「九条の会」

アクセスカウンタ

zoom RSS ジェンダーを考えることは、社会を考えること

<<   作成日時 : 2006/06/07 05:38   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

多摩市民「九条の会」では毎月会員にニュースを配布している。今月はそこにとあるチラシが折り込まれていた。「TAMA女と男がともに生きるフェスティバル2006」という長い名前の催しもののお知らせである。6月17日(土)、18日(日)に、聖蹟桜ヶ丘駅前のヴィータ・コミューネ7階、8階で催されるイベントだ。講演、シンポジウムや、映画「ベアテの贈りもの」などが行なわれるとのことだ。詳細を知りたい方は「たま広報」6月5日号にも詳しく出ているのでこちらを見てほしい。

多摩市に限らず、ここ10年くらいの間に行政機関として女性問題を特に扱う場としての女性センターが色々な自治体で作られた(多摩市の場合は99年設立)。このフェスティバルは多摩市の女性センターの活動の一環であるらしい。ではこの10年の間の日本社会を見渡して、女性の立場というものは向上したのだろうか、変化があったのだろうか。残念ながらどうもそのようには思えない。むしろ悪化しているかも知れない。もちろん女性センターが役に立っていないとかいった話では決してない。そうではなく、不況や政治構造の変化をはじめとする大きな社会構造の中で、女性や社会的弱者を取り巻く状況が悪化しているということであろう。それに対する行政の「一角」ができることは限られているのが現実である。

フェミニズムにおいて「個人的なことは政治的である」という有名なことばがある。これは「個人のあり方」というものには社会の様々な力が働いていることを「暴露」したものだ。いうなれば「男らしさ、女らしさ」、「いい子、悪い子」のような社会規範や、それを具体的に表現する様々な社会的イメージなどには、広い意味で政治的な力が働いているということである。例えばある服装からその人の社会階層を判断できたりするように。別に社会の裏で政治家が糸を引いてそうしたルールが決まっている、というような単純な話ではない。だがしかし時に応じて権力はそういった「個人的な」人の生き方を様々な形で規定しようとする。

もちろんそういった社会的な力というものは男女の問題にのみはたらくわけではないのだが、現在の社会においていわゆるジェンダーに対する圧力が目立って大きいという側面は否定しがたい。ジェンダーフリーという言葉に対する一部行政による「言葉狩り」が進み、公的な場から排除されるケースも起きている。幸い多摩市ではそういったことは行なわれていないが、「性別を区別する必要のない時に、わざわざ区別しなくてもいいじゃないか」という程度の緩やかな概念としてジェンダーフリーが使われている時すらも使用が許されないとしたら行政機関の行動としては大問題である(ちなみに、「中学生の男女に同じ部屋で着替えをさせるのがジェンダーフリーだ」などといって批判する暴論は単なる無理解である)。しかし現実にはジェンダーフリーバッシングに比べて、バッシングへ抗議する動きは弱い。(こうした傾向は、まともな議論や事実の確認もないままに、ちょっとした噂や報道に流されて行政が動くということを意味しかねず、現在の日本の政治のあり方の問題をも示しているのかもしれない。)

社会を見渡した時、ファッションやライフスタイルにはもはや「男らしさ、女らしさ」では括りきれない現実がある。官が締め付けをしてもそれに抗議をしなくてもジェンダーフリー的なものは進んでいきそう、に見える。しかし実際はおそらく違うのではないか。

「個人的なことは政治的である」という言葉を少し別の角度から考えてみるとそれが見えてくる。個人的なこととは私的なことであり、公的で政治的なこととは別なことであるという一般通念をひっくり返したからこの言葉は有名になった(ちなみに私的なこととは重要でないことという含意もある)。さて、そこでの公と私を区別する線引きは、政治の側によって規定されてしまう。今の例ならば、ファッションなどという「私的」で「個人的」な(つまり重要ではない)領域であれば、ジェンダー区分を弱めるような動きがあっても大目に見る、ということが政治的に決められているかもしれない。

「スカートをはく男性がいてもいいだろう、ファッションは仕方ない。だが、学校の出席簿は男女別に名前を並べよ」という決まりがある場合もあるだろう。社会通念上(これもいささか怪しい概念ではあるが)合理的に男女を区別する必要があれば区別すればよい。フルコートでサッカーをやる時に、男女の体力差を無視するのは非合理であるように。しかし教室で普通の授業を受け、ともに生活する中で先生が出席簿を読み上げる際、男女別に並べられた名前にどんな必然性があるのか。そこに合理的な説明はあるのか?

こうした過剰な性別の区分があるとしたら、それは最初に述べた様に様々な社会的力学の中で作られているのだろう。だが現実にはそれは「女性問題」として語られる。つまり、社会の問題ではなく「女性」の問題とされてしまうのが現実である。女性が社会的に弱者として置かれる構造があり、ジェンダーの問題のしわ寄せが男性よりも女性の身にのしかかることが多いからである。

当然今の世の中に、長期失業者のような弱者の男性もいるのだが、そうした問題のほとんどは「男性であること」に起因するとは見られず、失業や労働意欲などといったカテゴリーに入る。ところが女性失業者だと場合によっては「未婚であること」や「女だてらに」といった見方がされかねないわけである。それは失業している当の女性からすれば理不尽以外の何ものでもないという当たり前のことに気付く必要がある。さらには、既婚女性の失業ではしばしば専業主婦というカテゴリーに入れられ、「自発的失業」として失業問題から排除されることがある。こうした意味で「女性」に関わる問題を正しく認識しようと思ったら、社会的なコンテクストから幅広く考える必要がある。さて、このフェスティバル、そうした視点を市民に見せてくれるのだろうか、どうだろうか?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
ジェンダーを考えることは、社会を考えること 多摩市民「九条の会」/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる